【社会問題】便所チャンネルの不正利用についての懸念【倫理】

皆さんはdiscordを使っているだろうか。

discordはLINEの上位互換みたいなもんで、個人でサーバを建てることができ、趣旨に合うサーバに参加するという形をとるコミュニケーションサービスだ。

身内だけで固めたサーバを作るもよし、サーバのURLを広く公開して大勢の同志を集めるもよし。

私はすっかりdiscordにハマってしまい、今では月額$9.99を課金している。すっかりdiscord廃人だ。

まあそんなことはどうでもよい。

問題は、私の参加している「身内だけで固めたサーバ」の中の、とあるチャンネル(トークルームみたいなもん)だ。

問題のチャンネル(一番下)

#便所

一見して見慣れないチャンネル名だと思う。このチャンネルはいたって単純明快な目的で利用されている。

画像を一部加工しています。

そう、このサーバには、うんちがでたことを報告するとbotが褒めてくれるという、人類史上未だ類を見ない画期的なチャンネルがある。それが「#便所」である。ちなみにこのbotを作ったのは私ではない。

人間は、常に結果を求められている。

それは優秀な点数かもしれないし、高度な技術であるかもしれない。とにかく人は「結果」のために必死で努力し、時に他人と競い合う。屈辱的な大敗を喫することもあるだろう。こうした茨の道を抜けた先、それでも成功を信じ抜き、やっとの思いで結果を打ち立てた者だけが、褒められる。

それでは、人はなぜ褒められたいか。褒められることによって精神的な消耗を回復できるからである。「よく頑張ったな。」という一言で、今までの苦労も困難も、乗り越えてきてよかった。また頑張ろう。そう思えるのである。

しかし、社会の荒波に揉まれる大人は特にであるが、現代社会において無条件に褒められるという機会は滅多にないはずだ。それどころか、褒められるまでの過程で激しく消耗する。これは現代社会の抱える大きな矛盾といえる。

褒められるために頑張るのに、褒められるまでの過程で消耗する——。

こんな閉塞しきった負のスパイラルに突破口を開かんとするのがこの「#便所」チャンネルであり、「アルミーペンギン」というbotなのである。

便所チャンネルのルールは極めて単純。まず、うんちが出たタイミングで「うんちでた」「うんちドバドバ出た」などと投稿する。すると、botが自動的に「あっぱれ」「天才」と褒めてくれる。基本的には以上だが、場合によっては他のメンバーも便乗して褒めてくれることもある。

世間一般でどうだかは知らないが、このチャンネルにおいて人間が褒められる理由はただ一つ、うんちが出たこと。それだけである。

現代社会と対比するならば、こちらはまさしく正のスパイラル。すなわち、うんちが出る→褒められる→明日も元気に頑張ろう!→うんちが元気に出る→褒められる→の繰り返し。百利あって一害なしである。さらに自分の健康も管理できるというおまけつきだ。

ここまで「#便所」チャンネルについて詳しく説明してきた。いかに崇高な理念に基づいて運営されているか、よくわかって頂けたことと思う。「#便所」チャンネルの趣旨および理念については以上である。

しかし最近、私はとんでもないことに気が付いてしまった。そしてそのことに気が付いて以降、その呪いともいえる疑念は、私の心を揺さぶって止まないのである。

その疑念とは何か。それはすなわち、「うんち虚偽申告の可能性」である。「うんちでた」と投稿するだけなら、うんちでてなくても投稿できるじゃないか!

無論であるが、私は本当にうんちがでたときのみ便所チャンネルに書き込みを行っている。この疑念も、うんちをだし終え、手を洗い、「うんちでた」と投稿しようとした、まさにその時に浮かんだものだ。

そもそも、なぜbotが我々を褒めるのかと言えば、我々がうんちをだしたからである。

しかし、これがもし1人でも虚偽のうんち申告を行っている人間が紛れ込んでいたとするとどうなるか。botが我々を褒める根拠や価値が、根本から崩れ去ることになる。

botはあくまでも我々を100%善意で信用し、申告を受け付けている。だから、根本となる申告の信頼性が乏しいとなれば、botが我々を褒めることの価値も暴落する。喩えるなら、某北の国の、不透明な選挙に基づいた支持率100%など、誰が信頼するだろうか?

このサーバのメンバーを疑っているわけではない。botは自動応答だから、これからも我々のうんちに対し、疑うことなく賛辞を送り続けるだろう。

しかし、可能性が存在し、それに気付いてしまった以上、もはやbotの「あっぱれ」「天才」を手放しでは喜べなくなってしまったのである。

本来、人々の心に温かい喜びをもたらすはずの便所が、私の心の奥底に、僅かな、しかし確かな人間不信を植え付けた。

これは性善説の限界なのかもしれない。100%良心に任せられたシステムなど存在しえないのだろうか。

もっとも、疑い始めると破綻するのは、便所に限った話ではない。人間関係は信じることから始まる。だから、疑いを突き詰めれば、人間関係の拒否と同義でもある。

私がだしたうんちは紛れもない本物なのだ。私はうんちを出している。だったら、皆のうんちも信じようじゃないか。

思えば人間は、幸せな未来を信じることで、辛うじて生きているようなものなのかもしれない。だとするならば、信じることは人間の本質だ。

だから私は、信じるしかない。

荒れ狂う社会のうねりに身を投じても、暖かかな光を失わないために。

Kasumi

投稿者: Kasumi

東京都青梅市在住。鉄道マニア。

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